モンスター
●モンスター
監督/脚本:
《アイリーン・ウォーノス》1989年から1年間の間に7人もの人間を殺害し、全米で「モンスター」と呼ばれた女性。映画ではこの実在の連続殺人犯を同情的にではなく、取り巻く環境と共にその内面に迫ろうとしている。
アイリーンは最後の売春の客の暴力に死への恐怖を感じ、そして殺した。再び娼婦を始める時のアイリーンの苦痛。そして、暴力的な男は悪だと、妻がいながら娼婦を買うような男は悪だと、自らの行為に正当性を持たせて男たちを殺す選択をする。
しかし、自分の正当性に反してしまう日が来る。殺したことに苦悩する彼女はモンスターなどではない、れっきとした人間である。人間だから人を殺すのだ。映画を観て、決して彼女に同情的にはならない。犯した罪が消えないように。そこには理由があるのだと理解するだけである。
理由なき殺人は無い。通り魔にも無差別殺人にも理由はある。犯人には犯人になるだけの理由があるのだ。日本での少年犯罪に類する殺人事件はその理由を理解しないままに過ぎていく。遺族は理解をしたいのに。
逆に私はセルビーがよく分からない。いや、分かるのだ。レズである自分を否定する家庭環境から助け出してくれる存在としてアイリーンにすがった。そして、すがるだけの子供であった。アイリーンはすがられることに甘えたかった。その気持ちを利用していた。アイリーンがしていることも分かっていた。だが自らの立場の危うさにしか怯えることがなかった人間である。
そう、分かる。しかし、分かるだけなのだ。決してセルビーの内面に踏み込みはしない。本作はアイリーンの映画であり、それが必要ないというのなら、このセルビーという少女をアイリーンの独りよがりな思い入れの対象として描写するに留めても良かったと思う。
気になったのがアイリーンの同性愛描写。アイリーンとセルビーの2人の生活を見ると、あくまでもアイリーンにレズの気は無かったと分かるのに、最初のスケート場でキスにまで至っている。その感情だけは今ひとつ理解出来ない。事実なのか? だとしても観る側に感情を伝えなくては描写の意義はないかと。
確かにアカデミー賞主演女優賞を獲るであろう演技。美人が特殊メイクをして、わざわざ体重を増やして醜い体になってまでした演技。でも、それは演技への興味の比重が増してしまう紙一重のものでもある。そこが本作の作品としての完成度がもう一歩足りない理由かも。
ある殺人者を見てみる、それだけの映画。
しかし、その"それだけ"に意義がある映画。
監督/脚本:
- パティ・ジェンキンス
- シャーリーズ・セロン(『ノイズ』)
- クリスティーナ・リッチ(『キャスパー』)
その日、彼女は自殺しようとしていた。売春をして稼いだわずかな所持金を使いきらずには死ねないととあるバーに入ったことでその運命が変わった。少女セルビーとの出会い。しかし、2人での生活を目前にしてアイリーンは暴行してきた男を殺してしまう……。
《アイリーン・ウォーノス》1989年から1年間の間に7人もの人間を殺害し、全米で「モンスター」と呼ばれた女性。映画ではこの実在の連続殺人犯を同情的にではなく、取り巻く環境と共にその内面に迫ろうとしている。
アイリーンは最後の売春の客の暴力に死への恐怖を感じ、そして殺した。再び娼婦を始める時のアイリーンの苦痛。そして、暴力的な男は悪だと、妻がいながら娼婦を買うような男は悪だと、自らの行為に正当性を持たせて男たちを殺す選択をする。
しかし、自分の正当性に反してしまう日が来る。殺したことに苦悩する彼女はモンスターなどではない、れっきとした人間である。人間だから人を殺すのだ。映画を観て、決して彼女に同情的にはならない。犯した罪が消えないように。そこには理由があるのだと理解するだけである。
理由なき殺人は無い。通り魔にも無差別殺人にも理由はある。犯人には犯人になるだけの理由があるのだ。日本での少年犯罪に類する殺人事件はその理由を理解しないままに過ぎていく。遺族は理解をしたいのに。
逆に私はセルビーがよく分からない。いや、分かるのだ。レズである自分を否定する家庭環境から助け出してくれる存在としてアイリーンにすがった。そして、すがるだけの子供であった。アイリーンはすがられることに甘えたかった。その気持ちを利用していた。アイリーンがしていることも分かっていた。だが自らの立場の危うさにしか怯えることがなかった人間である。
そう、分かる。しかし、分かるだけなのだ。決してセルビーの内面に踏み込みはしない。本作はアイリーンの映画であり、それが必要ないというのなら、このセルビーという少女をアイリーンの独りよがりな思い入れの対象として描写するに留めても良かったと思う。
気になったのがアイリーンの同性愛描写。アイリーンとセルビーの2人の生活を見ると、あくまでもアイリーンにレズの気は無かったと分かるのに、最初のスケート場でキスにまで至っている。その感情だけは今ひとつ理解出来ない。事実なのか? だとしても観る側に感情を伝えなくては描写の意義はないかと。
確かにアカデミー賞主演女優賞を獲るであろう演技。美人が特殊メイクをして、わざわざ体重を増やして醜い体になってまでした演技。でも、それは演技への興味の比重が増してしまう紙一重のものでもある。そこが本作の作品としての完成度がもう一歩足りない理由かも。
ある殺人者を見てみる、それだけの映画。
しかし、その"それだけ"に意義がある映画。
★★★
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